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呑酸、カルキに等しい話⑤

彼の生まれ育った徳島県小松島市は瀬戸内海沿岸に位置した港町で、県南西部や四国中枢寄りの地域と違って自然に飲み込まれ過ぎず、県内でも風通しの良い過ごしやすい街だった。市内には、航路の廃止により使われなくなった小松島港、潮風に錆が重なった黄緑色の競輪場、実家からほど近い海辺の洞窟には不発弾注意の看板があって、そこは頼りないフェンスで封鎖されていて、もちろん立ち入り禁止で、だけど小さな頃、父と居る時だけは特別に忍び込んでも良くて、彼はそれが怖くて怖くて少し楽しみだった。水たまりのような洞窟を抜けると、柵の無い向こう側の海に会えた。春には柔らかい緑色の上に立って居られた。ありふれた特別、みたいなものに、幼くして彼は触れた。そしてその記憶はそれからも勝手に彼の中で成長を続けていくだけの事だった。それから廃線に伴い公園のオブジェにされた大きなSL機関車、となりの広場にはそのさらに数倍大きなたぬきの銅像と市立図書館、それはいつも湿気を帯びていて、例えばそういったようなものの数々がいつ消えても問題のないバランスで故郷のアイデンティティとして街に混在していた。
目が覚めると夜だった。夜の心細さは彼の汗ばんだ黒のスウェットに吸われて、自意識に自意識が気付いた頃、ようやく彼は乾いた頭で自分を始めようとした。一瞬、目を開けているのかどうかも分からなくなった。「うーああ」近くに誰も居ない事が決定づけられていて、それはもうずっとそうで、おかげで彼はどんな痛々しい声も、情けない声も、いつだって憚ることなく出すことが出来た。彼は彼の孤独に守られていた。望んではいない毎日だった。けれどわざわざ手に入れたものだった。起き上がるとそれは間違いなく自分の身体だった。だって動かし方を知らないのに、こうして動かせるのだもの。
外に出ると夜だった。あの雪の日と同じモッズコートに袖を通して、一日の終わりと始まりと今そのものを一緒くたに、いつもの街を走る安い理由にした。毎日やってる閉店セールだ。叔父に貰ったシクロクロスは、時々後輪にイヤホンとコートのはじっこを巻き込んで嫌だった。田舎町で泣き叫ぶようにうたを歌った所で、鉢植えとか、塀とか、網戸とか、玄関マットとかにこっそり跳ね返るだけだという事を知って虚しくなった。何かしたい、と思った。何か、というよりもどうにかしたい、と思った。昨日も思ったな、と思った。彼は今日の分の時計の針と共に、この気持ちも潰えていく事を知っていた。視界が白んだ気がしたけれど、でも外はまだ暗かった。つまりまだ一人で居ても正しい時間で、彼は声を上げながら、時限爆弾付きのその気持ちを何度も反芻していた。ペダルを踏むリズムは気持ちを置き去りにもしたし、緩やかに見過ごしもした。
家に帰ると夜だった。十数時間の中で日記に書けることがひとつも無いのは、彼にとって彼が、この街に於けるいつ消えても問題のないオブジェであり港であり看板であったからで、それでも彼はランプを点けてペンをとった。モデルルーム産のランプは傘の骨組みがいくつか折れていて、動かす度に不快な音をたてた。お茶を入れた。黒のスウェットから、今度は穴の空いたほうの黒のスウェットに着替えた。いつだか掴み合いになって破られた穴だった。季節は中途半端だった。覗き込むと、ただ自分の肌が見えるだけだった。
次の日も目が覚めると、夜だった。

2019/12/03(火) 16:40:59

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