維新静岡史

その後秋月は22歳の時、幕府を代表する学校、昌平坂学問所に入り、ここで佐藤一斉と安積艮斉に師事、嘉永3年(1850)同寄宿寮の寮長となった。同窓生には水戸藩の後に慶喜公の側近となった原市之進や薩摩藩の重野安繹がいる。文久3年に秋月の師である麹町教授書の松平謹次郎が没すると塾頭だった秋月が変わって教授所の運営にあたる。
しかし文久2年(1862)12月会津藩主松平容保が京都守護職になるとそれによって秋月が公用人に命じられてやがて秋月は教授所を離れ代わりに同藩士の林惟純によって教授所が運営されるようになった。
だがこの麹町教授所はあくまで幕府管轄だったので会津藩籍の惟純が管理していたが表面上は幕臣であった大島文一郎(後静岡学問所教授)が校長役であった。その後林惟純も慶応2年(1866)に幕臣に取り立てられることになる。今でいうと会津藩という子会社から幕府という親会社に採用されたと言える

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