悪魔の母性

第七章 現在(4)



「…カット!」

 もう、これでいったい何テイク目になるだろうか。苛立ちを隠しきれない池浦監督の怒号に、スタジオ内の空気がまた重苦しくなる。特にそれを如実に感じていたのは、スタジオの真ん中に位置どっている向井杏奈だった。

「違うだろ、杏奈ちゃん。そこはそうじゃないって何度言えば分かるんだ!?」
「あ…。す、すみません」

 じろりとにらみつけてくる池浦監督の目から逃げるように、杏奈はメイクで青白くなっている顔をゆっくりと伏せた。

 撮影もいよいよ大詰めとなり、杏奈はあとわずか1シーンを残すのみとなった。

 自分以外は誰もいない警察病院の病室で、杏奈演じる『石井美奈子』がベッドの中で何かにすがるように宙に手を伸ばすが、何も掴めずに力尽きて腕が落ちるというもの。

 セリフは一切なく、表情と息遣い、そして宙へと伸ばす腕の動きのみでそのシーンを作り上げていかなければならないのだが、午前中から取り組んでいるというのに、池浦監督の口から「OK!」という言葉が全く出る気配がない。

「…違う!そこはそんなに速く腕を上げちゃダメだ!」
「息遣いがわざとらしすぎる!もっと意識して!」
「杏奈ちゃん、ここまでの経緯を経た後で『石井美奈子』がそんな楽そうな顔をすると思ってんのか!?」

 何度杏奈が演じてみせても、そのたびに池浦監督から細かいダメ出しが出てくる。一つ直したところで、また別の何かを指示されてはダメ出しと、延々繰り返していた。

「カット!今度は目の動きが悪くなった!ただ宙をぼんやり見てればいいってもんじゃ…」
「か、監督。もうお昼を回ってますから…」

 撮影を開始してから、もう四時間は過ぎようとしている。池浦監督が少し離れた壁にあるスタジオの時計をちらりと見れば、もう午後二時に差しかかろうとしていた。

 助監督が顔を引きつらせながら言ってきた言葉に、彼は「んぅ…」と少し唸る。それに気が付いた杏奈は、ベッドの上から「もう一回お願いします!」と声をあげた。

「今、中途半端に中断されたら、もっとできなくなる気がするんです。だから…」
「分かった。昼休憩を挟もう」

 杏奈の言葉を遮った池浦監督は、続けざまに彼女を振り返って言った。

「杏奈ちゃん、今日はもう帰っていい」
「え…?」
「これ以上やっても時間のムダになる。もう一度じっくり作品と向き直ってくるんだ。明後日、エキストラの撮影が終わった後で取り直しするけど、それまでスタジオに入るなよ?」

 淡々とそう言い切り、そのままふいっと背中を見せて歩き出した池浦監督を杏奈は引き止める事もできずに呆然と見送っていた。

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