悪魔の母性

第一章 現在(1)



「…ちょっとパパ!これはいったいどういう事なの!?」

 それは、都会の喧騒の中でも夏の映えた青空を仰ぎ見る事ができるほど、よく晴れた日の昼下がりの出来事だった。

 大手芸能プロダクション『ムカイコーポレーション』の自社ビル最上階にある社長室。そこに突然、一人の若い女がノックもせずに荒い足取りで入ってきた。

 全体を明るい茶色に染めたセミロングの髪にパーマをかけているその女は、少々派手なメイクと挑発的な服装に似つかわしくない激しい息切れを起こしていた。それでも己の納得いかない感情をぶつけるかのごとく、窓際に立っていた者の背中に向かってはっきりと言い放った。

「パパの嘘つき!約束するって言ってくれたのに!!」
「…杏奈(あんな)、何度言ったら分かるんだ?」

 それに対して、窓際に立っていた者――『ムカイコーポレーション』の社長、向井茂久(むかいしげひさ)は、冷静沈着な言動でゆっくりと肩越しに振り返る。蓄えたヒゲが実に雄々しく、よく似合っていた。

「ここでは社長と呼びなさい。それにその格好…まさか衣装か?」
「そうよ。衣装合わせをしてる時にこれもらって、すっ飛んできたところ」
「バカな事を。今頃、田所君が現場で頭を下げまくってるだろうな」
「パパが約束を破ったからじゃない!」

 半ば怒鳴るようにそう言うと、女は右手に持っていた一枚の紙片を足元の床に叩き付けた。

 ここに来るまでに握りつぶされてしまったのか、すっかり折れ曲がってしまったその紙片に書かれているのは、約一年後に公開が予定されている映画のキャスト表であった。

 国内外に高い評価を受けている有名監督がメガホンを取るその映画は、今から十五年ほど前、実際にあったある誘拐事件をベースにしたミステリー作品だ。

 彼女は父親の強い売り込みもあって、まだ実績は少ないものの、その作品のヒロインとして出演が本決まりになったところだった。だが。

「あの映画の主役、絶対コウちゃんにしてくれるって言ってたのに!だから私、ヒロイン役頑張るって決めたのよ!それなのに、どうしてコウちゃんとは違う知らない男の名前が書かれてるの!?」

 そう言いながら、女は社長室の壁一面に張られた所属俳優達のポスターのうちの一枚を指差した。

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