悪魔の母性

第二章 過去(1)



 都会の喧騒より、ずいぶんと離れた郊外の町。

 人口の減ったその小さな町の片隅にある寂れた駅のホームに、一人の女が佇んでいた。

 山あいから吹いてくる夏の風が、その首元に巻かれたスカーフの裾をはたはたとなびかせているせいで、彼女がどんな表情でそこにいるのかは分からない。だが、反対側のホームに立つ駅員の男は、何故か彼女から目が離せなかった。

 いつかどこかで会った事があるような…、そんな懐かしいような気さえ起きて、ふと気が付いた時には大声で呼びかけてしまっていた。

「…あの、すみません!そこにいてもらえませんか!?」

 何の理由づけもない、突拍子で陳腐なその呼びかけに気付いたその女は、スカーフの裾と共に揺らぐ長い髪を掻き上げながら、駅員の方へとゆっくり振り向く。

 そこに浮かんでいた彼女の笑みは、何とも言えないほどに――。





「――はい、チェックOKです。では休憩挟みますんで、お昼とって下さーい!」

 その日の午前最後のシーンを撮り終え、監督からのOKサインを見て取ったADの一人が、声高々にそう言う。すると、これまでずっと張りつめていた現場の空気が一気に和み、その場にいた者達から安堵の息をつくかすかな音がそれぞれ漏れた。

「ふう~…。やっと昼メシかぁ!」

 自分が立っているホームより線路を挟んだ反対側まで大声を出すという演技を何テイクも繰り返させられ、駅員の制服を着た彼ののどの渇きはもう限界だった。

 スタッフが用意してくれているだろう豪勢なロケ弁よりも冷えた麦茶を一刻も口にしたくて、彼はチェックカメラの前からすっと身を翻した、その時。

「ねえ、あなた。次のシーンで話したい事があるんだけど、少しだけ時間いいかしら?」

 背後から突然届いた涼やかで美しい声に、彼の全身は一瞬で硬直した。

 無視をする訳にはいかなかった。彼女は今回の映画の主役であると共に、事務所の大黒柱であり、大先輩だ。自分がこの映画に出演できたのも、彼女の力があったがゆえだ。

 ああ、きっとまた監督から食らう以上のダメ出しやお小言を聞かされるのだろう…。

 そんな事を思いながら、彼はそうっとした動きで肩越しに振り返った。

「はい、大丈夫です。本郷さん…」

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