悪魔の母性

第三章 現在(2)



「…はい、カット!モニターチェックよろしく」

 池浦監督の納得がいった掛け声に、ピンと張り詰めていた空気が一気にやわらぐ。それと同時に、子供を切なく抱きしめ続けるという演技をしていた向井杏奈の口から安堵の息が漏れた。

 目の前にいる小さな存在に思いを馳せて、抱きしめる。ただそれだけの事が、こんなに難しかったなんて…。

 表情から抱きしめる腕の動きまで事細かに指導され、それらを何台ものカメラに追われる。思っていた以上の難しさに何テイクも重ねてしまった杏奈の両腕は、緊張と疲労で小刻みに震えてしまっていた。

 脚本の修正により一ヵ月以上も予定が伸びた『悪魔の母性』クランクイン初日は、撮影許可の下りた一般道路で行われた。

 最初の撮影は、誘拐事件の被害者となる少年が、その数日前に学校でちょっとした乱闘騒ぎを起こしてしまった後のシーンから始まった。

 少年の家で家政婦をしていた主人公『石井美奈子』がその帰り道、落ち込む少年を慰める為に腕の中に抱き寄せるという大事なシーンだ。一ヵ月間、それなりに「予習」をしてきたのだから、これくらいなら余裕で終わると思っていた杏奈の思惑はいとも簡単に打ち砕かれた。

「疲れた…」

 先にモニターチェックをし始めた池浦監督達の元へ向かおうと、杏奈は位置取りをしていた道路から少し離れているそちらへと歩き出す。その際、ついぽそりと本音が口から小さく出てしまったが、彼女のすぐ側にいたものはそれを決して聞き逃さなかった。

「それは僕のセリフですよ。四回もNG出すなんて多すぎです」

 幼い声色がかえってカチンと来て、杏奈は横に立っている彼をじろりと見降ろす。そこでは、誘拐事件の被害者となる少年役の高橋唯斗が少し呆れたような表情で見上げていた。

 乱闘騒ぎを起こした後での帰り道という設定なので、今の唯斗はシワと汚れにまみれた子供服の上にランドセルを背負っているといった格好だ。

 唯人の言う通り、彼にはほとんどミスはなく、池浦監督から四回以上ものダメ出しを食らったのは杏奈だけだ。それを自覚しているだけに、杏奈は余計に腹が立って小さな共演者に大人げなく噛み付いた。

「悪かったわね。そんな重い物を背負ってる上に、何度も抱きしめちゃって!」
「全くです。僕、明日学校で体育あるんですよ?大好きなドッジボールなのに筋肉痛でうまく動けなかったら、お姉さんのせいですからね」

 かっわいくない子…!杏奈は心からそう思った。

 改めて決定稿となった脚本が届いてすぐにチェックしてみたところ、やはり内容は大幅に変更されていた。

 特に大きく変わっていたのは、前の脚本ではほとんど会話はなかったはずの唯斗とのセリフ回しが一気に増えていた事。

 そして蓋を開けてみれば、思っていた以上に扱いにくい子役と知った。本郷 湊や長峰智子と同じくらい苦手になるかもと、杏奈は頭を悩ませていた。

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