悪魔の母性

第五章 現在(3)



「…ミナちゃん。もう、あの時とは違うんだ。頼むから、今度は甘えておくれ。あの時みたいに、一人で抱え込んでどこかに行くんじゃない。ミナちゃんはもう一人じゃないんだよ」
「そうだよ、美奈子さん。今度は、僕も一緒なんだから」

 自分よりずっとキャリアのある人間二人に囲まれての演技は、向井杏奈の胸と息をぐっと詰まらせ、真一文字に結ばれた唇をさらに引き締める。それが功を奏したのか、一度リテイクを食らったそのシーンは二回目のやり直しでOKが入った。

「よし。それじゃあ、このままシーン75の撮りに入るぞ。おいAD、長峰さんと唯斗君の小物チェック。杏奈ちゃんは今日はこれでおしまい。先に上がっていいよ、お疲れ!」
「…あ、はい。お疲れ様でした」

 池浦監督の忙しない声が、それまで堅く引き結ばれていた杏奈の口元をほぐし、ピクピクッと動かす。それと同時にパンパンに膨らんだゴム風船の空気がゆっくりとしぼんでいくかのごとく、杏奈の緊張感も少しずつ抜けていった。

 今日の『悪魔の母性』の撮影は、地方ロケとなっている。都会よりバスで数時間ほど離れたN県のT市。そこにある廃校となった小学校の校舎を三日間ほど借りて、『石井美奈子』が育った養護施設『光のこども園』の全シーンを撮る予定である。

 今、撮影されていたのは、『石井美奈子』が誘拐してきた『本郷 湊』と共に『光のこども園』で最初の夜を過ごすシーン。

 始めはワラにもすがる思いでやってきたが、やはり迷惑をかける訳にはいかないと『石井美奈子』は立ち去ろうとするが、『光のこども園』の施設長と『本郷 湊』にその折れそうな心を支えてもらうという、映画の前半の見せ場となるシーンだ。

 原作本では、『石井美奈子』と『本郷 湊』が『光のこども園』に辿り着いたのは夜もだいぶ更けた頃だと書かれてあった。それに準じて脚本も夜のシーンとなり、廃校舎に到着してから数時間、杏奈はずっと緊張感を抱いたままの撮影に臨んでいた。

「唯斗君、疲れてないかな?あと1シーンで今日はおしまいだから、終わったらおいしいものを食べに行こうか」
「ありがとうございます、監督。僕、全然疲れてませんから大丈夫です!」

 先に出番を終えて廃校舎の教室から一人出ようとした杏奈の背後から、そんな会話が聞こえてくる。肩越しにちらりと振り返ってみれば、池浦監督が少し身体を屈めて子役の高橋唯斗の顔を覗き込んでいた。

 長時間の移動と撮影がかさんで疲れているはずなのに、彼はニコニコと愛想よく笑いながら池浦監督からの期待に応えようとしてる。それだけでも杏奈の緊張感は充分に高まっていたというのに。

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