さちこのどんぐり

登山家の遺書

明石海峡大橋のたもとにある閑静な住宅街にある落ち着いた造りの洋館風の家で

「すまんな…」
妻の初美の発案で3年前から飼っていた白いネコを
訪ねてきた知人夫婦に預けるときに
山下秀夫は、ネコにそう言った。

窓から差し込む薄赤い西日に染まりながら、白いネコは
寂しそうに「にゃー」と答えただけだった。




登山家である山下は60歳を過ぎていた。
その真っ白な頭髪と髭に縁取られた彼の表情には優しさと悲しみがうかんでいた。

そんな彼は
5日後にエベレスト登頂に向けて旅立つ。

そのため日本を離れる前に山下はネコの世話を知人に頼んだのだった。

その2か月後、山下は山頂への最終アタックを目指す最終ベースから、
世界最高のエベレスト登頂に挑んでいた。

計画通りに行けば、今日、山頂に立てるはずだ。

そこそこ有名な登山家であった山下にとって、エベレストへの登頂は今回で8度目になる。
しかし老いてしまった山下の体は
氷と強風に、行く手を阻まれながら、
低い気温と気圧に立ち向かうことに悲鳴をあげていた。

それと戦いながら、山下は頭の中で、初美との思い出を振り返っていた。

山下と妻の初美は進学した大学で同級生として知り合った。

登山ばかりしてた山下が友人に誘われて行った合コン。
その席に彼女がいた。

綺麗なショートボブが頭を振る度に揺れ、明るく微笑む初美に
山下は一目惚れした。

その後
二人は付き合うようになり、
当時、料理好きの初美はよく山下の部屋にご飯を作りに来てくれていた。



バイトに明け暮れてた山下の古くて狭いアパートで

初夏の蒸し暑い日でも
「ライスコロッケ作ったよ。さあ!たくさん食べて」

狭くて冷房なんかないから汗だくになって…




「うまい」山下がそう言うと、

「でしょ! たくさん作ったよ」

「いくつ作ったの?」

「20個…作りすぎちゃった」




その後、山下と初美は結婚したが、
なかなか子供に恵まれなかった。

そんな二人にやっと息子が生まれたときも
山下はこのエベレストにいた。

帰国してから見た
ちっちゃい、ちっちゃい山下の子…

その子が眠ってるのを
ずっとずっと眺めてた山下に初美は


「…幸せだね」
微笑みながら、そう言った。

エベレスト山頂を目指しながら、

そんな妻のことを思い出していた山下には
これまで、ずっと後悔していたことがあった。



「俺は馬鹿だった…大切な大切なお前達を
もっと大事しなきゃいけなかったのに…

登山家として名声も得た。
生活も充実していた。でも…」



山下の息子が14才で交通事故に遭い、亡くなってしまったことを知ったのも
やはり彼が、この山にいたときだった。

山下は…泣くことしかできず、
そのとき、つらく寂しい思いをしてた初美に何もしてやれなかった。

その日から山下は妻と息子に対して、
ずっと後悔と懺悔を繰り返してきたのだった。




そして、そんな初美も昨年、他界した。

山下が病床の妻を見舞いに行ったとき
弱々しい声で彼女は彼に、こう言った。

「あたしはね…
あなたが山に行ってる間、
ずっとずっと…
心配で心配でたまらなかった…

だから…いま変な気分…

初めてあなたがあたしを心配してる…」




あれから…あっという間に1年が過ぎた。

山下自身も、もう長くないことを医者から告げられたのは3か月前。

癌だそうだ。

だから今回の無謀な登山に旧知のシェルパ達は、とてもよくしてくれた。


彼は、最期の登山にこのエベレストを選んだのだ。

その人生を振り返り、自らの自責の念に決着をつけるため。



「妻は俺と結婚したことを後悔してなかっただろうか?

息子は、こんな父親の元に生まれたことを恨んではいなかっただろうか?

それを聞きたかった…そして、謝りたかった…だから…」

ゴォーゴォー…
尾根を抜ける気流が唸り…

ゼィ…ゼィ…
耳には自分の呼吸音しか聞こえない。

低酸素で目がかすむ…

体が鉛のようだ。

重い腕を前に出す…

そして重い体を少しずつ…
少しずつ…



ゴォーゴォー
尾根が、
空が、唸りをあげている。

もうすぐ山頂だ。

藍色の空にブルーが重なる。

かすんだ目に目映い光を感じる。




ああ…晴れてきた。




「妻よ。息子よ。俺はどうしても
 またエベレストに登りたかったんだ…

 だって…



 だって、ここは






 地球上でいちばん天国に近いから」






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