ナマケモノに夜《完》







私はあまりの惨状に、つい、口元に手のひらを当てがって「そんな」と呟いた。



そんな私の心情を知ってか知らずか、私の隣にいた老人が興味津々に喋りかけてくる。




「おや、おや、あんた、ここいらで見かけない人だねえ。随分綺麗な顔だけど、あれかい海の向こうからやってきたのかい?」

「いえ……いえ、あの」

「ああ、ああ。そうかい驚いているのかい。そうだろうねえ、明智屋の人がまさかねえ。これで三度めだ」

「三度目?」




思わぬ老人の発言に私は声を高くした。



喫茶店でミルクだけを飲んだのは正解だった。固形物を食べていたら、もしかするともどしていたかもしれない。




「そうさ、そうさ。三度目なのさ。ちょうど数日前から、この藤屋敷町では死人が出てるのさ。噂では、殺人犯が町の中に紛れているんだという話だよ。ああ、怖い怖い」

「殺人鬼ですと?」

「そう、そう。それも桜ばかり落としていくような粋な殺人鬼さ」




老人はそう言って、橋の下にある明智夫人の屍体を枯れ細った指でついっとさした。





「ほうら、べっぴんな旦那、見えるだろ?明智夫人の周りに、ひらひら泳いでいる赤を。あれはね、魚じゃないよ、魚じゃない。ほうら、そのお綺麗な目玉を凝らして見てみなよ。あれは桜だ、桜だよ。綺麗な桜の花弁なのさ」




老人が私に言う。
確かにその通りではあった。



明智夫人の周りには、桜の花びらが落ちていた。




「……川に桜に屍体」



まるで奇妙で、けれどどこか心奪われるその組み合わせを私は声に出さずにいられなかった。太い雨粒が私の事をべちゃべちゃと濡らしていく。






「かわいそうにね。でも、綺麗な屍体よ」



野次馬の中、誰かが言った。


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