ナマケモノに夜《完》





私には到底菓子など作れないので心から尊敬する。おそらく女性にも好かれやすいだろう。明智家の人々は、男女問わず総じて顔がおよろしい。




「まだ夕方ですよ」

「はい。しかし、父がよければ作家先生にと風呂を沸かしてしまったもので」

「私に、ですか?」

「父は作家先生の書く本が好きなのです。どうやら、執筆の合間の気分転換にでもと思ったようです。さしでがましくて恐縮ですが、よろしかったらどうぞ、入ってやってください」



淳さんが地面に額をつけるので、私は慌てて腰をあげた。




「や、や、やめてください頭をさげるなど。むしろ、私にとってはもう途轍もなく有難い誘いでして。もし明智家の人々がいいとおっしゃるなら、是非入らせてください」

「それはよかった。家族も喜びます」




淳さんは其処で漸く顔をあげてくれた。私はへなへなと腰をおろして、額をぬぐった。




「どうぞ、ゆっくり浸かってください。……ああ、それと」

「なんでしょう?」

「作家先生、窓を閉めた方がよいのでは?」




淳さんが声をやや尖らせて私の部屋の窓を睨みつけた。そこからは、桜の花びらが数日前よりももっと頻繁に、入り込んできていた。



奇妙な事に、明智家の庭の桜は未だ満開のままだった。
私は原稿用紙を裏返して頷いた。




「ええ、今閉めようと思っていたところです」

「それならいいのです。いえ、なんだかこの部屋が随分桜臭いなと思いまして」

「桜臭い、ですか?」

「はい」



淳さんは襖を閉めつつ、こう云った。




「桜の匂いは、うちの家族は……いえ、この藤屋敷町にいる人は皆忌み嫌っています。私達には、この桜の香りがまるで血の匂いと同じように感じるのです」



淳さんはそう云って、私の部屋から出ていった。私は目を瞬きながら、一先ず素直に窓をぱたん……と閉めた。


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