ナマケモノに夜《完》

3話 ほつれ髪の栞 /8











「すみません」




川近くの喫茶店に顔を出した私は店の奥に向かって声をかけた。




だが反応はない。私は相変わらずの白い立て襟のシャツに、袷、袴、そして今日はハンチング帽を被っていた。




「すみませーん」




私はもう一度声を出した。
けれどやはり返答はない。




ふと真下を見ると、店の地面が桜の花びらで溢れかえっていた。まるで海だ。




「……この喫茶店ももう終わりか」



私はハンチング帽をとると、深く頭を下げてから喫茶店をあとにした。最後にミルクを飲みたかったが、人がいないのだから無理だろう。




天気はよかった。



けれどもう、藤屋敷町の地面は全て桜の花びらで埋もれていた。




私は一人、桜の中を歩き出す。
私は一人、人の気配が消えた藤屋敷町を歩き出す。




通り過ぎる藤屋敷町のとある家は窓ガラスが割れていて、とある家の中は人々が逃げ回ったような形跡があった。



人の姿は、けれどやはりない。



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